So-net無料ブログ作成
検索選択
So-net無料ブログ作成
検索選択
So-net無料ブログ作成
検索選択

永田行夫はナヴォイ劇場を建設した日本人!!ウズベキスタンに桜公園を!! [テレビ]

4月20日(木)19時57分より
フジテレビ系「奇跡体験!アン
ビリーバボー」が放送予定で
すが、今回は「春爛漫、桜に
ちなんだ心温まるエピソード」
が紹介される予定です!!

タイトルは「異国の地で咲き
誇る桜に秘められた日本人
の心」というお話です。

「ウズベキスタンの首都タシケ
ントの市内には現在1000本
もの桜が咲き誇っている。第二
次世界痰戦終了吾、ソ連の捕
虜となった日本人は各地に拘
留されていた。永田行夫らは
ウズベキスタンに送還され、
ソ連政府政府の革命の30周
年を記念したオペラハウスの
建設を課せられていた。極寒
の地での強制労働。
過酷な環境の中、疲弊していく
日本兵たち…そんな中、永田
だけは全員での日本への帰国
を諦めなかった。そして彼には
もう一つの目標が…」という内容
になっています。

永田行夫さんらがしたことに
ついて、まとめてみました。





スポンサードリンク








<日本人が作ったナヴォイ劇場とは!?>


日本から遠く離れた中央アジア
のウズベキスタンの首都である
タシケント。タシケントには一番
有名なナヴォイ劇場という場所
がある。レンガで造られたビザン
チン様式の美しい建物。

そして、劇場の左壁プレートには
、ウズベク語、日本語を含めた4
ヶ国語で以下のように刻まれて
いる。

「1945年から1946年にかけて、
極東から強制送還された数百名
の日本国民が、このアリシェル・
ナヴォイ劇場の建設に参加し、
その完成に貢献した」

そう、この劇場は戦後ソ連の捕虜
となった日本人抑留者たちによって
造られた劇場であった。

戦争が終息した1945年、9760名
がタシュケントに移送され、犠牲を
強いられながらも数年かけて都市
の建設に貢献したのである。

その中でこのナヴォイ劇場を
建設したのが、永田行夫元陸軍
技術大佐率いる450人からなる
タシュケント第四ラーゲリー隊で
あった。
この時、永田氏はまだ25歳であっ
たという。

永田氏は当時を振り返る、
「無論、不幸なことには変わりは
ない。食事は常に不足して、私も
栄養失調で歩くのがやっとの時期
がありました。南京虫には悩まされ
、月一回のシャワーは石けんを流し
終える前に湯が切れることが常で
した。冬はあまりに寒いので建設
現場の足場を持ちかえって部屋の
薪にしていたのですが、後にばれて
厳禁となりました。」

ウズベキスタンに送られた
25113人のうち、わずか2年で
813人の犠牲者出た。それだけ
過酷で劣悪な環境であったので
ある。

しかし彼らは決して作業の手を
抜いたりすることはなかった。

地獄のように過酷な日々であっても
当時の日本人抑留者たちは実直、
勤勉に仕事に励み予定工期を大幅
に短縮し、わずか2年という期間で
ナヴォイ劇場を完成させた。

永田氏は「全員で日本に帰る」と
いう希望をどんなに過酷な状況で
あっても、それを捨てなかった。

そして、もう一つの希望が「みんなで
生きて帰って、桜を見よう」ということ
であった。

しかし…過酷な労働環境であった
ために、永田氏が担当していた第四
ラーゲリー隊の450人のうち、劇場が
完成した時には79人が帰らぬ人と
なってしまった。

その後、1947年にナヴォイ劇場が
完成すると、次々と祖国である日本
へ帰還することが出来た。永田氏も
生きて帰ることが出来たのだ。

永田氏も劇場建設中に、2人の仲間
が亡くなり、当初の目標であった「全
員で日本へ帰還し、もう一度桜を見る」
という目標が果たせなかったことが
心苦しかったであろう。









スポンサードリンク






<強制労働であっても、手を抜かない日本人に信頼を寄せたウズベク人!!>


ナヴォイ劇場にあるキレイな天井
も、繊細な彫刻も全て当時の日本
陣抑留者が細部にまでこだわりを
持って作ったものなのだ。

強制労働させられている身分にも
関わらず、真剣に責任感を持って
仕事に取り組む日本人対して、やが
て現地のウズベク人は好意と尊敬
の気持ちを持ち始めたという。

ウズベキスタン中央銀行副総裁の
アブドマナポフ氏は子供の頃に
日本人が働く姿を見たことがあった
という。

いつも疲れて帰って来る日本人
抑留者を見て同情したアブドマナ
ポフ氏は友達と一緒に何度も宿泊
所の庭先に自家製のナンや果物を
差し入れにいったという。

すると、その数日後に必ず同じ
場所にある物が置かれていた
そう。

それは精巧に作られた手作り
の木工玩具であった。

共生労働で疲れ切った抑留者
という身分にもかかわ変わらず、
受けた恩は必ず返す、という誠
意を見せた日本人抑留者の行
為はいつかしか道徳的規範と
してウズベク人の間で語り継が
れるようになったという。


<地震でも損壊しなかったナヴォイ劇場、人々の心を動かした!!>


そして、時は流れ、ナヴォイ劇場
が完成した20年後の1966年。

タシュケントの街を未曾有の大震災
が襲った。マグニチュード8の巨大
地震であった。この地震によって、
タシュケント市内の建造物の60%弱
は崩壊。

しかし、周囲の建物が瓦礫の山
であったにも関わらず、地震前と
全く変わらず凛とそびえ立つ
ナヴォイ劇場の姿があった。それ
を見タシュケント市民は日本人へ
の敬意の念を持って見上げた。
そして、ナヴォイ劇場は被災者の
避難場所として多くの人が利用
した。

そのような経緯もあり、多くのウズ
ベク人が、子供の頃、母親から、
「日本人のように勤勉でよく働く
人間になりなさい」と言われて
育ったという。


<友好は消えることのない証!!祖国へ帰国できなかった日本人へ桜の木を!!>


また、ソ連時代に、日本人墓地
をなくして更地にするように、と
指令が出た過去があった。ソ連
政府は捕虜使役で劇場が作られ
たことを隠蔽したかったからだ。
しかし、ウズべク人の人たちは
その指令を無視し日本人が眠って
いるのだからと墓地を荒らすこと
なく、キレイな状態を保ってくれて
いたのだ。

ウズベキスタンが独立した後、中山
恭子匿名全権大使がウズベキスタン
政府に日本墓地の整備をしたい、と
依頼をした。

当時のスルタノフ首相からすぐに
返答があり、「ウズベキスタンで亡く
なった方のお墓なのだから、日本人
墓地の整備は日本との友好関係の
証としてウズベキスタン政府が責任
を持って行う。これまで出来ていな
かったことは大変はずかしい。早速
整備作業にとりかかります」と快く
返してくれたのだ。

そして、当時の市長であるコジン・
トゥリャガノフタシケント市長から
「建設中のタシケント市の中央公園
を日本の桜で埋められないだろうか」
という素晴らしい提案があった。

現在、この講演は「さくら公園」と呼ばれ
、みんなに親しまれているそうだ。


当時の日本人捕虜たちが、祖国日本へ
帰ることを希望に、日々過酷な騒動の
中で働いたこと…しかし、全員が帰ること
は出来ず、日本からは遠いウズベキスタン
地で命を落としていった事実。

「全員で日本へ帰還し、もう一度桜を見る」

これが果たせなかった人たちがいた
ことは永田氏も心を痛めていたはず。

しかし、日本人たちが捕虜であっても
決して手を抜かなかったこと、誠実な
仕事をしたことは、地震が襲ってきても
損壊しなかったナヴォイ劇場がそれを
証明している。

凛とした芯のブレることのない姿勢、
それは日本人捕虜、ナヴォイ劇場、
タシケント市の桜、どれも同じなので
ある。





スポンサードリンク





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。